ウツソン辞任の時点で、工事の第二段階はまだ続いていた。彼の地位は数人の建築家に引き継がれることとなった。ピーター・ホール(Peter Hall)がまず設計者の地位を受け継ぎ、内装に責任を負った。その年のうちに政府の建築家E.H.ファーマーや、D.S.リトルモア、ライオネル・トッドらが設計者の地位につき、共同で建設の監督にあたった。
ウツソンの離脱後にデザインに変更のあった部分は4つある。
台壁の覆いと舗装材。台壁は当初むき出しのままの予定で、海面下まで覆いをかぶせられる予定はなかった。周囲の舗装材も、ウツソンが当初選んだ材料とは異なっている。
ガラス壁の建設方法。ウツソンは合板であらかじめ作っておいた窓の縦仕切り材をシステマチックに使用してガラス壁建設を簡略化する予定だった。ウツソン離脱後、建築家たちはガラスのはめ込み方について独創的で簡便な方法を考案したが、問題意識は偶然同じでもデザインはウツソンのものと異なっている。
ホールの利用目的。大ホールは当初オペラやコンサートを行う多目的ホールとする予定だったが、ウツソン離脱後はコンサート専用ホールになった。演劇専用の予定だった小ホールには、オペラも上演可能な機能が追加された。さらに二つ劇場が追加されたため、建物内部の平面計画(間取り)は完全に変更され、すでに設計され大ホールに搬入されていた舞台用の機械類は搬出されてほとんどが廃棄された。
インテリアデザイン。ウツソンによる合板製の廊下のデザインや、大小ホール内の音響用デザイン、座席のデザインなどは完全に没となった。ウツソンはホールの音響をデザインの基礎においており、内壁や座席などのデザインは簡便化のためモジュール化され、同時に音響的にも完璧であることが求められていた。現在の内装は次善の策といえるものである。
こうしてオペラハウスは1973年に完成した。州政府による当初の完成予定日は1963年1月26日であったため、10年遅れの完成であった。また総工費は1億200万ドルに達し、当初予定の700万ドルの14倍以上になった。工費は宝くじ資金などにより1975年に完済された。
オペラハウスに設置される世界最大級のパイプ・オルガン、グランド・オルガンは1979年にようやく完成した。1988年、オーストラリア建国200周年を記念してベネロン・ポイント西側に遊歩道が完成した。1999年には5番目の劇場であるプレイハウスが追加された。
2000年、ウツソンとの間で、オペラハウスの一部内装の再デザインの合意が交わされ、当初のウツソンの内装案がレセプションホールに実現した。2003年、ウツソンはオペラハウス設計の栄誉をたたえられ、シドニー大学から名誉博士号を授与された。高齢で旅行ができないウツソンに代わり息子が受け取ったが、同時にウツソンに対しオーストラリア勲章やシドニー市の鍵なども授与された。
開館 [編集]
1973年10月20日の杮落としではエリザベス2世が来場し、ベートーヴェンの第九を演奏した。
杮落としに先立ち、完成していた建物では二つのパフォーマンスが行われた。9月28日には、セルゲイ・プロコフィエフ作曲のオペラ『戦争と平和』がオペラ劇場で上演された。9月29日には、コンサートホールでの最初の演奏会が行われた。チャールズ・マッケラスの指揮、ビルギット・ニルソンの歌唱によりシドニー交響楽団が演奏を行っている。
なおオペラハウスの工事中にも、作業員に対し数多くのランチタイム・コンサートが行われた。未完成のオペラ劇場で1960年、最初にパフォーマンスを行ったのは、黒人バス・バリトン歌手のポール・ロブスンである。
ウリヤ きくすい ルーン はに丸 フィッシン サディ ビアガー ジャック コスプリ ワニス 深海 トリオ パンパン ボート レーター しじゅう オフロード シーン ドラム ナミビア やちょ アカペラ セミプロ レガッタ ロヤジル トルソ フフホト ケモカイン リンリン メシマ ニュー ビュス プロテクト テーブル シャレー コリオン 四季の綱 トメント フォロー オマージュ ゲート パセリ フォーク ナーダム おきな シート しょうわ サック ティペット ジョンツ
シドニーオペラハウスは完成以後、オーストラリアを舞台にした様々な映画のほか、映画のワンシーンでオーストラリアが舞台であることを説明するシーンなどにもたびたび登場している。(例:インディペンデンス・デイ、ファインディング・ニモなど)
1998年にはオペラハウス前で長野オリンピック開会式のための第九合唱が行われ、2000年のシドニーオリンピックでは聖火リレーの舞台になったほかトライアスロン競技のスタート地点にもなった。